来迎寺

浄土宗知恩院を本山とする引接山聖聚院来迎寺は、金刺氏の分家といわれる諏訪左衛門慰を開基に、天文10(1541)年、願誉栄海上人によって中興開山された。和泉式部にゆかりがあり、北条時頼が運んできたと伝えられる和泉式部守り本尊の銕焼地蔵尊を安置するほか境内には供養とも建つ。また、寺の境内に庚申塔があるのも珍しい。


矢除石

寺雲寺山道の石段を滝の口から登ると途中右手に大きな岩がある。寺雲寺中興の祖といわれる天桂上人を信玄が訪ねた折のこと、師はこの岩の上に立って「私を矢で射てみよ」といい、至近距離から射かけさせたという。しかし、矢は岩にはね返され上人にあたることはなかった。信玄は、矢よけの石の念力がこもった矢除札を受け、戦場に赴いたとの伝説がある。


万治の石仏

春宮横の砥川を渡った田んぼの中にあるユーモラスな石仏。側面に万治3年と年号が刻まれているところから、万治の石仏と呼ばれている。藩主諏訪忠晴が春宮の鳥居を寄進した折、職人が石材にと見立てたこの石にノミを入れたところ血が流れ出し、驚いた石工たちは仕事を中止し、小さな頭を乗せて祀った。ノミの跡は今も残っている。


尾掛松

神々が出雲大社に集まったある日、諏訪明神は龍の姿で頭だけを出したので、他の神様が尾はどうしたかと訪ねると「尾は(=大和)諏訪湖のほとりの高い木(=高木)に掛けてある」と応じたことから、それが尾掛松とともに大和、高木の地名の起源となったとも、一方で諏訪湖の主たる大蛇(龍)が上社から下社を訪れた時に尾を掛けたとも伝えられている。

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島木赤彦住居 (柿陰山房)

久保田家の養嗣子となった赤彦は、大正7年、東京のアララギ発行所から帰郷すると、自らここを「柿陰山房」と命名し、大正15年に亡くなるまでを過ごした。間口8間半、奥行き5間半、茅葺造り、在郷氏族の家屋としても評価が高い。庭には樹齢300余年の赤松と樹齢130余年の胡桃、ともに赤彦が愛した老木が残り、裏山の津島神社前に歌碑と墓がある。


諏訪湖オルゴール博物館 「奏鳴館」

中世のカリヨンをモデルに生まれ19世紀後半に欧州で全盛期を迎えたオルゴールは、その美しい音色で人々を魅了し、安らぎや夢を与えてくれた。そんな古典オルゴールの生演奏を聴きながら、オルゴールの世界を堪能することができる。 (さらに…)


水月公園

慈雲寺の裏手、諏訪湖を一望する高台に広がる景勝地公園。江戸時代に諏訪藩主の別邸、逍遥亭があった場所で、現在は桜の名所として名高く、多くの花見客で賑わう。園内には正岡子規、島木赤彦、今井邦子らの句碑が多数あり、文学散策にも好適。


諏訪湖博物館・赤彦記念館

下諏訪町町制施行100周年の記念事業として開館。諏訪湖とともに暮らす人々の歴史、文化をテーマに独特の漁法や漁具を展示、諏訪湖の湖岸や湖中に生息する動植物の生態系をジオラマ等でも紹介する一方、信玄が家宝としていた「諏訪法性の兜」を収蔵。諏訪湖では明治時代に「下駄スケート」が登場。館内では下駄スケートに始まるスケート靴の変遷を見ることができる。ユニークな建物は湖に浮かぶまるき船をモチーフにしている。 (さらに…)


照光寺

城向山照光寺は、真言宗智山派屈指の由緒ある名刹で、常法談林所という高い格式を誇る。本山は京都智積院、本尊は金剛界大日如来である。創建は明らかでないが平安時代にまで遡るともいわれ、室町時代に下社神宮寺憲明法印が再興し、薬師如来を安置。下社別当寺唯一の末寺だった歴史を経て現在に至っている。 (さらに…)


承知川と承知橋

武田信玄は「諏訪大明神」ののぼりを軍企図するなど、諏訪大社への信仰篤く、たびたび戦勝祈願に訪れていた。戦からの帰途でこの川に差しかかった際のこと、信玄の馬は突然立ち止まり、動かなくなってしまった。馬を下りた信玄は、戦勝祈願の際に神と約束した社殿の建て替え、千手堂三重塔建立を思い起こし、「神のお告げ承知仕り候」と申し上げたところ馬は再び歩き出したという。それからこの川を承知川、橋を承知橋と呼ぶようになった。